Recursos de colección

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers (135.711 recursos)

HUSCAP (Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers) contains peer-reviewed journal articles, proceedings, educational resources and any kind of scholarly works of Hokkaido University.

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Mostrando recursos 1 - 15 de 15

  1. 「自然」を受け入れる地域社会 : 岩木川下流部河川敷を事例として

    寺林, 暁良
    本稿は,地域社会によって利用・管理されてきた「二次的自然」が,地域社会とNPOや科学者,行政の連携によって保全される事例が増えているが,地域環境を生活の場として利用・管理してきた地域社会がなぜ「自然」を守ることを目的とした管理に協力するかを,青森県中泊町武田地区を事例として考察した。地域社会と土地は,生活空間としての結びつきや管理すべき場所としての総有意識から不可分に結びついており,地域社会は土地との関係性を継続するために,社会的なしくみを常に変容させてきた。こうした視点からみると,生態学者らや彼らがもたらす「自然」という言説は新たな価値と社会的なしくみを生み出し,地域社会が土地との関係性を継続するための「資源」とみることができる。地域社会はすでに「自然」という価値を積極的に受容し,新たな資源管理のしくみを立ち上げるための素地を有している。

  2. 宗教団体への所属と「地位橋渡し型ソーシャル・キャピタル」 : JGSS-2003の分析から

    寺沢, 重法
    本稿の目的は、現代日本において宗教団体への所属が「地位橋渡し型ソーシャル・キャピタル(status bridging social capital」に対して関連があるのか、そしてそれは他の団体への所属と比べてどのようになっているのか、をJGSS-2003のデータ2次分析から検証することである。具体的には、JGSS-2003の中のposition generatorで測定されたネットワークから、1)人脈の広さ、2)官公庁職員とのネットワークの有無、3)政治的人物とのネットワークの有無、4)社会的地位の高い人とのネットワークの有無、という4つの従属変数を作成し、この従属変数に対して宗教団体への所属の有無が統計的に有意な効果をもたらしているのか否かをさぐった。その結果、宗教団体への所属の有無は、いずれの従属変数に対しても統計的に有意な効果をもっていないことが明らかになった。また、宗教団体への所属の有無よりも、むしろ政治団体や労働組合などへの所属のほうが、これらのネットワークに対して効果をもつことが明らかになった。

  3. ‘Restoration’ of urban community: challenges and prospects

    森下, 義亜
    This paper aims to consider the sociological term of ‘community’. It theoretically thinks about its state in contemporary urban settings. It has long been agreed that sociology is a discipline that studies human interrelations and societal solidarity. Thus, it is reasonable as well as meaningful to consider community as the context in which they can take place. However, the concept in question has been interpreted in a number of ways, thereby rendering it a confusing omnibus word with a variety of connotations. This has been the case, even though it is one of the key terms of sociology and thus...

  4. 侯孝賢『悲情城市』のなかの言語 : 文字と音声について

    井上, 裕子
    1945年から1949年の台湾を舞台にした映画『悲情城市』では,史実を伝える文字画面や筆談の文字,また複数の言語によるセリフ,手紙や日記体のナレーション,ラジオ放送の音声など,豊かな手法で物語が語られている。そしてこのすべて言語にかかわる手法は視覚による文字と聴覚による音声に分けることができ,映画のなかの文字と音声の言語はそれぞれ対称的に配置され,その機能と効果を果たし,物語内容を語っている。さらにこれらの言語は,物語とともに,台湾という空間における一時の歴史的時間をも語っていることが分かる。そして,この映画のその視覚的な文字と聴覚的な音声に着目し,それらを分析・考察して浮かび上がってくるのは,情報伝達における音声言語の未全であり,一方での文字言語の十全である。映画をみるに当たって,私たちは音声で映像を補うよりは字幕を頼りにする。音声情報に十分な注意を払わずに,視覚情報に重きを置く。これはやはり,映画における音声の映像への従属を示すのだろうか。しかし,『悲情城市』では聞こえる音声が情報伝達の未全を示す一方,聞こえない音声である「沈黙」がそれを補うように伝達の十全を表わしている。音声には多くの情報が隠されており,文字は映像に組み込まれることで,映像の力に勝るとも劣らない機能を発揮する。つまりそれは,音声と映像の豊かな統合であり,そこに映画の構造における映像と音声というものを考察する一つの機会ととらえることができる。この作品では,視覚の文字,聴覚の音声が映画の構造のなかでそれぞれ対等の機能と効果を果たし,映画のなかの物語と映画の背景と,そして媒体としての映画そのものを作り上げているのである。

  5. 怒りの日 : 人類学と許しえぬもの(仏文)

    クレルク, リュシアン
    Depuis plus de deux siècles, les figures de l'intolérable se sont multipliées jusqu'à saturer notre espace public de faits réprouvés socialement et sanctionnés juridiquement. Génocides, abus sexuels, esclavage, crimes de guerre et tortures sont devenus injustifiables et généralement considérés comme un mal radical qui marque le dépassement d'une limite. Si l'on se tourne vers le passé des sociétés contemporaines, nous pouvons nous rendre compte que cette limite est toujours historiquement constituée et donc marquée d'une relativité temporelle. L'histoire des différentes sociétés humaines nous montre également comment elles s'organisent afin de se prévenir de la guerre et de ses ravages,ce qui n'est pourtant pas le cas des sociétés...

  6. 奇門遁甲の基礎的研究

    猪野, 毅
    小論は、山川九一郎著の『奇門遁甲千金書』という書を解読するために、まずその前提として「奇門遁甲」の基本的な概念や考え方について、まとめようと試みるものである。  『四庫全書総目』子部・術数類の中に収められている奇門遁甲に関係する文献には、『遁甲演義』二巻、『奇門遁甲賦』一巻、『黄帝奇門遁甲図』一巻、『奇門要略』一巻、『太乙遁甲専征賦』一巻、『遁甲吉方直指』一巻、『奇門説要』一巻、『太乙金鏡式経』十巻、『六壬大全』十二巻 。また、『古今図書集成』や『隋書』経籍志にも遁甲の書が見える。  「遁甲」なる言葉は、史書においては『後漢書』方術伝・高獲伝・趙彦伝に初めて見え、また『陳書』『魏書』『北斉書』『南史』などにも「遁甲」の名称が見える。日本でも『日本書紀』推古天皇十年(602)条に「遁甲」が伝来したことが見える。 『遁甲演義』・『奇門遁甲秘笈大全』などにより奇門遁甲の基本概念を考えると、甲を除いた乙・丙・丁を「三奇」とし、戊・己・庚・辰・壬・癸を「六儀」として、八卦の入った洛書九宮の枠に組み合わせ、その他、休、生、傷、杜、景、死、驚、開の「八門」、直符、螣蛇、太陰、六合、勾陳、朱雀、九地、九天の「八神」(あるいは太常を入れて「九神」)、また天蓬星・天任星・天冲星・天輔星・天英星・天芮星・天柱星・天心星・天禽星の「九星」を並べて「遁甲盤」を作り上げ、占う年月日時を六十干支で表し、「天の時」「地の利」「人の和」に基づいて占いを行う。その占い方には、洛書九宮の八枠を円盤に見立てて回転移動させる排宮法と、洛書九宮の数の順序通りに移動させる飛宮法があり、山川九一郎『奇門遁甲千金書』の占い方は排宮法を用いている。  遁甲盤を並べ終えたら、それぞれ九星・八門・八神(または九神)などの表す意味や、相互の影響を考えて、吉凶を判断する。  奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもあるあるので、奇門遁甲は時間と空間を統合した学問と言える。さらに、空間を洛書に従って九つに分け、時間を六十干支に従って六十に分割し、独自の世界観を構築している。また、九神・九星が天、九宮が地、八門が人という、「天・地・人」をイメージした世界を構成している占術なのである。

  7. 日本語聞き手待遇表現の語用論的機能 : 丁寧体選択におけるストラテジーの関与

    呉, 泰均
    本稿は,日本語聞き手待遇表現の選択に関与する諸要素のうち,話し手の心理的操作,言語的戦略であるストラテジーを取り上げ,その資質を明らかにした後,聞き手待遇表現の選択にいかにして関与し,どのような発話効果を引き出すのかを考察したものである。  日本語聞き手待遇表現の選択に深く関係する要素として,話し手と聞き手の人間関係や場面の改まり度といった状況的要素が挙げられる。これらの要素によって自動的に決まる一律的な言語形式の選択,すなわち,社会規範的・慣習的言語使用は,聞き手待遇表現の選択における無標性を帯びるものであると言える。もっとも,ここで注目すべき点は,「無標性からの逸脱」である。 こうした聞き手待遇表現の選択上の問題を解明するために本研究で唱えたのがストラテジーである。これは,聞き手待遇表現の選択に関与する状況的要素に伴って決まってくる待遇表現形式に従うか従わないか,という判断を下す主体(=話し手)の心理的操作であると見ることができる。そこで,本稿では,状況的要素を無視する故意の逸脱に注目し,このような話し手の心理的操作のことをストラテジーと見て論を進めてきた。つまり,本研究で言うストラテジーという概念のポイントは,「何らかの狙いがあって,意図的に調整を行い,無標状態から逸脱しようとする心理的操作・言語的戦略」のことである。これは,状況的要素に従って待遇表現の選択を行うか行わないかという,話し手の最終的手段であると考えられる。こうしたストラテジーによる無標状態からの逸脱,また,そこから引き出される有標的発話効果は,聞き手待遇表現における語用論的機能を捜し出すためのカギとなると言える。

  8. 話者は「ノダ」文の内容をどう捉えるか : 既定性の再考

    中野, 友理
    「ノダ」文の持つ特徴として,しばしば命題内容の既定性が指摘される。本稿では,この既定性が「ノダ」によって生じる意味特徴といえるのか,また「ノダ」文の持つ既定性が具体的に話し手によるどのような事態の捉え方を表すものであるのかを考察する。 形式的,また認知的側面からの考察によれば,「ノダ」の表す意味とは,話者がある対象や事態を知覚した後に,さらなる認知活動を行ったことを表示するものと考えることができる。この検証として,「ノダ」文の使用に際して話者による一連の認知過程は想定可能であるか,また想定できない場合,その「ノダ」は話者のどのような認知状態の時に用いられ,どのような意味を持つと考えられるかということを考察した。結果として,話者による認知過程を想定できる場合は,話者がある事態を知覚判断した後にさらに疑問を持ち,それについて話者なりの答えを導くという認知活動がある。一方,認知過程を想定できない場合は,聞き手への伝達的用法として「ノダ」が使用されていると考えることができる。この「ノダ」の伝達的用法は,聞き手に対して話者自身の知識を伝えようとする状況において見られ,「ノダ」文の提示する情報について,話者が聞き手よりも判断したり管理したりする権限を持ち,逆に聞き手は話者から情報を与えられる側の立場であることが含意される。  「ノダ」の既定性について,本稿の結論は,文内容について話者による一連の認知過程が存在することであるとした。また,これを踏まえて「ノダ」の本質的な意味とは話者による一連の認知過程の存在を明示することであり,これまで聞き手への伝達場面において考察されてきた「ノダ」の意味は,本質的意味から生じる一つの用法として位置づけることができると考えられる。

  9. 「分かる」につくテイルのアスペクト的機能

    劉, 暁娟
    本稿は、「分かる」がもつ特質を明らかにした上で、「分かっている」のモダリティ的機能を考察し、「分かる」の動作性と状態性との関連を分析するものである。 分析した結果、以下に述べるようなことが明らかになった。 (1)「分かる」は状態性と動作性を持つ。 (2)「分かる」は人称制限を受けないこと。 (3)「分かる」と共起する「もう、とっくに、既に」は完了性を示せにくくなる。 (4)「分かる」はリニューアル的な現在の状態を示すことが可能である。これは「分かる」は「今は/今なら」と共起しやすいことから証明される。 (5)「分かる」につくテイルは、結果状態か一時的状態と解釈されるのが一般的である。

  10. 日韓オノマトペの対照研究 : オノマトペの述語省略表現について

    裴, 明文
    本稿はオノマトペの述語省略表現について、日本語と韓国語両言語を対照して考察したものである。オノマトペとは擬音語、擬声語、擬態語、擬情語などをいい、多くの国の言語にはこのオノマトペが存在する。中でも日本語と韓国語は他の言語に比べてオノマトペの数は豊富である。したがって、使い方や表現方法もいろいろ多様に存在する。日本語と韓国語のオノマトペは、昔から多くの研究者たちによって研究されて来た。両言語のオノマトペ対照研究も最近になって盛んになり始めた。しかし、本稿のテーマである、オノマトペの述語省略表現についての日韓対照研究はあまり多くない。本稿では、日本語の場合と韓国語の場合をそれぞれ研究した。今回の研究を通じて日本語ではオノマトペによる文末の述語省略表現は可能であるが、韓国語では文章の場合は不可能であることが分かった。日本語では、述語省略表現が可能なのはすべてのオノマトペではなく、二つの場合がある。 ① オノマトペが「‐する」動詞あるいは「‐だ」述語のように文中で述語の機能をしている場合、そのオノマトペの後ろの「する」や「だ」が省略できるので省略表現は可能である。 ② オノマトペとその後続の動詞との共起制限が強ければ強いほど、述語省略表現は可能である。 日本語のオノマトペの多くは「‐する」動詞あるいは「‐だ」述語として使うことが可能なので、一般文章はもちろん、新聞の見出しや広告のキャッチフレーズなどでも述語省略表現は頻繁に使われる。 韓国語の場合、文章の中では述語省略表現は不可能である。理由は、韓国語の文章には強い文法制限があり、文末は必ず終結語尾「다」で終わらなければならないからである。このような文法制限は日本語には存在しない。韓国語にはこの文法制限があるため、一般文章で文末の述語がオノマトペの場合は、主に「‐하다」、「‐거리다」、「‐대다」、「‐이다」の四つの派生接尾辞を用いる場合が多い。しかし、韓国の新聞の見出しや広告のキャッチフレーズなどでは述語省略表現が可能である。本稿では主に述語省略表現が新聞の見出しで使われた場合、日本語と韓国語ではどのような相違点があるかを研究した。

  11. インドにおけるOthello像 : インド高等文官と英国教育制度の関係から(英文)

    山田, 美幸
    In 1848, an innovative Othello was performed at the Sans Souci Theatre in Calcutta, India. Producer Manager, James Barry, managed to cast a native Indian as the title character. Barry’s Othello was an enormously revolutionary and influential event for the Indian stage as well as for Indian society. Although the native Indian actor, Baishnav Charan Adhaya, was modestly accepted in Western society at first, his second performance was bitterly rejected. This situation is similar to the character Othello’s. In India, there were elite Indians like Othello, who were cultivated by the Westerners. Barry gave a representation of the elite Indian...

  12. 日本の女性作家のエッセーにおけるヒトとモノとの関係 : 幸田文と向田邦子を中心に

    ファルトゥシナヤ, エカテリーナ
    外国文学と比較した際に顕著となる日本文学の特徴として、エッセーというジャンルが盛んであることと、早い段階に女性作家が登場し、今日まで一定の地位を保ち続けていることが挙げられる。本論文では、日本の女性作家のエッセーにおけるモノの描写に着目し、モノの描写がとりわけ顕著に見られるふたりの女性作家、幸田文と向田邦子を取り上げる。ふたりの作家のモノに対する関わりを分析することで、昭和の女性作家のエッセーの特質となる共通点を明らかにし、さらにふたりの相違点にも注目したい。  幸田文の作品からは『かけら』、『髪』、『雛』を取り上げる。向田邦子については、エッセー集「父の詫び状」から『子どもたちの夜』、『ねずみ花火』、『卵とわたし』、『隣りの神様』を取り上げる。

  13. 選言的定義としての芸術クラスター理論の妥当性について

    伊藤, 佐紀
    20世紀半ばから英米圏で興隆した分析美学は、「芸術とは何か」という問いを「芸術」概念の分析に主眼をおいた「あるものが芸術概念に適応されるための必要十分条件とは何か」という問いへと再定式化した。このような「芸術定義論」は現在も分析美学の中心的テーマの一つとされている。近年、スコットランドの美学者ベリス・ゴート(Berys Gaut)は、反本質主義を擁護する「芸術クラスター理論」を提唱した。ゴートは、「芸術は束概念であり、それゆえ定義することができない」と主張し、あるものが芸術概念に適応されるための条件として、複数の改訂可能な基準を選択的に結合させることによって芸術概念を特徴化する、選言的結合形式を持つ記述の束(the Cluster Account of Art : 以下CAAと略記)を提示する。こうした議論に対し、芸術概念の定義不可能性を主張する反本質主義擁護の立場に立ちながら、芸術であることの条件を挙示するゴートの主張は矛盾を包含しているという批判が集中した。本稿はこうした批判に対するゴートの応答を検討することによって、一見矛盾を包含するように思われるゴートの主張の目的を整合的にとらえるよう試み、理論の位置づけを明確化する。そのうえで、ゴートが提示したCAAの妥当性を検討する。まず芸術クラスター理論の前提と背景を確認し(第一節)、次いで基本的な概要(第二節)を確認する。さらに、ステッカーとデイヴィスによる「CAAは定義である」という批判を取り上げ、この批判にゴートがどのように応答しているか検討する(第三節)。ここでゴートがCAAは「高度に選言的で多様性に富む」定義であると譲歩しながらも、反本質主義者の立場に固執したゴートの意図を明確にするよう試みる。最後に、反本質主義を擁護しようとするゴートの主張は維持できず、CAAの妥当性は選言的定義として認められうることを示唆する(第四節)。

  14. ロールズの功利主義批判と「人格の区分の重視」

    池田, 誠
    本稿では、ジョン・ロールズの『正義論』における功利主義批判のキーワード「人格の区分の重視(taking the distinction between persons seriously)」について考察する。ロールズによれば、功利主義やそれが提案する道徳原理である功利原理は現実の人々の「人格の区分」を重視しない。この批判は、功利主義は全体の功利の最大化のためなら平等や公正な分配を無視した政策でさえ支持するという政策・制度レベルの批判ではない。むしろこれは、功利主義は功利原理の各人への「正当化」および正当化理由のあり方に対し無頓着であるという、道徳理論・方法論レベルの批判である。ロールズによれば、功利主義は人格を、「不偏の観察者」という想像上の管理者によって快い経験や満足を配分されるのを待つ単なる平等な「容器」のようなものとみなす。だがロールズによれば、われわれの常識道徳は、人格を、自らに影響を与える行為・制度に対し、自らの観点から納得の行く正当化理由の提示を請求する権利を持つものとみなしている。この各人の独自の観点や正当化理由への請求権を認めること、これこそが「人格の区分」を重視することにほかならない。 以上の事柄を『正義論』での記述に即してまとめたのち、私は、アンソニー・ラディンによるこの批判の分析・論点整理(Laden 2004)に依拠し、ロールズ自身に向けられてきた「人格の区分の軽視」批判が、ロールズ正義論の全体を把握し損ね、近視眼的に眺めてしまうがゆえの誤りであることを示すとともに、ロールズの「人格の区分」批判の論点が功利主義の根底に潜む「非民主的」性格にあったことを明らかにする。その後、結論として、ラディンの分析に対する私なりの考えと異論を述べるとともに、ロールズ正義論が現代倫理学において持つ意義について触れたい。

  15. 修復腎移植から見たインフォームド・コンセントの限界

    村松, 哲夫
    修復腎移植のような医学的に妥当性が疑われるような治療方法は、現在、臨床試験として実施されている。これは厚生労働省の認可を受けており、公的機関がこれを差し止めることは難しい。ドナー志願者、レシピエント志願者がインフォームド・コンセントとしての拒否権を発動するのに期待されるが、一方で、両者には発動しない自由もある。後者の場合に至れば、このような方法を止める手立てはない。インフォームド・コンセントにおいて、説明は枢要な要素である。臨床試験においても、医師の説明に不備があるべきではない。

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