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Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers (135.521 recursos)

HUSCAP (Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers) contains peer-reviewed journal articles, proceedings, educational resources and any kind of scholarly works of Hokkaido University.

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  1. ワイドスクリーン過渡期における“窃視”の考察 : 川島雄三『雁の寺』を中心に

    黄, 也
    六十年代にテレビが覇権的なメディアになったことによって,斜陽化していた映画産業は前代未聞の瀕死状態に直面した。その対策として,スタンダード・サイズから,幅が二倍ちかくに拡大するワイドスクリーンが導入された。ワイドスクリーンは単なる技術的な変化だけではなく,映像的美学にも根本的な影響を及ぼしている。 本稿はその過渡期の作品,川島雄三監督の『雁の寺』を研究対象として取り上げたい。なぜなら,『雁の寺』は,ワイドスクリーンによる映画の表現様式の変化と,川島自身の演出の変容が二重化したかたちで現れているからである。 具体的には,『雁の寺』における二つ水準の“窃視”をめぐって考察していきたい。まず,女性主人公の露出した身体が例外なく,一方的に男性主人公の視線に曝されてしまうという,物語の水準における分析を行う。そして,ワイドスクリーンの映画それ自体を“窃視”のメカニズムとして考察したい。それらによって,『雁の寺』における窃視の異質性を明らかにする。 一方で,物語世界と関係なく,別種の窃視が『雁の寺』には存在する。具体的には,ありとあらゆる物を利用して作られたフレーム=覗き穴を通して,決して心理主義的な説明や,権力関係の象徴的意味に還元されない,極端なカメラ・ポジション=非人称的な視点によって,強度に満ちた画面をわれわれ観客に絶えず提示している。本稿では,それを第二の水準の“窃視”と見做す。 物語の構造から逸脱し,それ自体の自律性を持つ画面の強度と,同一化や感情移入ではなく,観客に視覚に快楽や刺激を与える驚きの美学は,ワイドスクリーン時代の到来による川島映画の構図の変化と連動し,また,初期映画における「アトラクションの映画」にも共通している特徴である。以上の二つの水準の“窃視”がお互いにせめぎ合いながら共存している。『雁の寺』は,そういう関係性のなかで生まれた産物の以外の何ものでもないのだ。

  2. ワイドスクリーン過渡期における“窃視”の考察 : 川島雄三『雁の寺』を中心に

    黄, 也
    六十年代にテレビが覇権的なメディアになったことによって,斜陽化していた映画産業は前代未聞の瀕死状態に直面した。その対策として,スタンダード・サイズから,幅が二倍ちかくに拡大するワイドスクリーンが導入された。ワイドスクリーンは単なる技術的な変化だけではなく,映像的美学にも根本的な影響を及ぼしている。 本稿はその過渡期の作品,川島雄三監督の『雁の寺』を研究対象として取り上げたい。なぜなら,『雁の寺』は,ワイドスクリーンによる映画の表現様式の変化と,川島自身の演出の変容が二重化したかたちで現れているからである。 具体的には,『雁の寺』における二つ水準の“窃視”をめぐって考察していきたい。まず,女性主人公の露出した身体が例外なく,一方的に男性主人公の視線に曝されてしまうという,物語の水準における分析を行う。そして,ワイドスクリーンの映画それ自体を“窃視”のメカニズムとして考察したい。それらによって,『雁の寺』における窃視の異質性を明らかにする。 一方で,物語世界と関係なく,別種の窃視が『雁の寺』には存在する。具体的には,ありとあらゆる物を利用して作られたフレーム=覗き穴を通して,決して心理主義的な説明や,権力関係の象徴的意味に還元されない,極端なカメラ・ポジション=非人称的な視点によって,強度に満ちた画面をわれわれ観客に絶えず提示している。本稿では,それを第二の水準の“窃視”と見做す。 物語の構造から逸脱し,それ自体の自律性を持つ画面の強度と,同一化や感情移入ではなく,観客に視覚に快楽や刺激を与える驚きの美学は,ワイドスクリーン時代の到来による川島映画の構図の変化と連動し,また,初期映画における「アトラクションの映画」にも共通している特徴である。以上の二つの水準の“窃視”がお互いにせめぎ合いながら共存している。『雁の寺』は,そういう関係性のなかで生まれた産物の以外の何ものでもないのだ。

  3. 『殺人の追憶』における「混ざること」,中間性

    中井, 朋美
    『殺人の追憶』という映画では,規定されたはずのものが混ざり合ってしまうことで,境界線があいまいになる。そのために,事柄がその間に落ちていくこと(本論文ではそれを「中間性」とする)が全体を貫いている。中間性は,予告され,画面の中に配置されており,映画の進行とともに,物語上の中心や二項対立をも融解させ,すべてを引き込んでいく。この進展を表出させるのは,事件を追う二人の刑事と,不在となっている犯人である。事件の捜査を担当し中心となっている二人の刑事は,はじめ物語的にも,画面内的にも中心に位置づけられ,単純な二項対立をなす。しかし,二人は互いの要素が混ざり合ってしまい,画面的にもその中心性が裏切られるために,中間性へと落ちていく。事件の中で一貫して不在であることで,観客の関心を引き,中心となる犯人像は断片だけが描かれ,それが統合できないことにより,にわかに怪物性を帯びた特権化されたものとしておかれていく。しかし,映画のラストにおいて,犯人が予想とは真逆の「普通」であったことが判明するとき,中間性におち,交換可能な位置となる。すべてが中間性に落ち込んでいくことは,映画の映像自体が根源的に孕んでいる中間性に関わっている。映像はそれ自体が,真/偽の中間に位置している。そのために,映っているものが真実かどうかは曖昧であるし,真実ではない存在からも,「真実」らしさをはく奪できないのだ。『殺人の追憶』においては,主として観客が犯人にもつイメージが逆転することによって,この中間性が観客の誤認や独善に結びつくということを告発している。中間性は,韓国という〈場〉が持つイメージにも関わっていると考える。韓国は,地理的,文化的,政治的など,混ざり合ってしまうことがその根底に関わっている。そのことを考慮すれば,本作は,韓国という〈場〉そのものをミニマムな視点で描いた作品ともいえるだろう。

  4. 『殺人の追憶』における「混ざること」,中間性

    中井, 朋美
    『殺人の追憶』という映画では,規定されたはずのものが混ざり合ってしまうことで,境界線があいまいになる。そのために,事柄がその間に落ちていくこと(本論文ではそれを「中間性」とする)が全体を貫いている。中間性は,予告され,画面の中に配置されており,映画の進行とともに,物語上の中心や二項対立をも融解させ,すべてを引き込んでいく。この進展を表出させるのは,事件を追う二人の刑事と,不在となっている犯人である。事件の捜査を担当し中心となっている二人の刑事は,はじめ物語的にも,画面内的にも中心に位置づけられ,単純な二項対立をなす。しかし,二人は互いの要素が混ざり合ってしまい,画面的にもその中心性が裏切られるために,中間性へと落ちていく。事件の中で一貫して不在であることで,観客の関心を引き,中心となる犯人像は断片だけが描かれ,それが統合できないことにより,にわかに怪物性を帯びた特権化されたものとしておかれていく。しかし,映画のラストにおいて,犯人が予想とは真逆の「普通」であったことが判明するとき,中間性におち,交換可能な位置となる。すべてが中間性に落ち込んでいくことは,映画の映像自体が根源的に孕んでいる中間性に関わっている。映像はそれ自体が,真/偽の中間に位置している。そのために,映っているものが真実かどうかは曖昧であるし,真実ではない存在からも,「真実」らしさをはく奪できないのだ。『殺人の追憶』においては,主として観客が犯人にもつイメージが逆転することによって,この中間性が観客の誤認や独善に結びつくということを告発している。中間性は,韓国という〈場〉が持つイメージにも関わっていると考える。韓国は,地理的,文化的,政治的など,混ざり合ってしまうことがその根底に関わっている。そのことを考慮すれば,本作は,韓国という〈場〉そのものをミニマムな視点で描いた作品ともいえるだろう。

  5. 女の勝利が女自身しか笑えないコメディ : 今村昌平の「重喜劇」・『赤い殺意』をめぐって

    モルナール, レヴェンテ
    今村昌平は「テーマ監督」である。すなわち今村の作品群はその時期々々において特定のトピックや主題を軸に構成されていることを示す。主題におけるそういった反復は,監督自身によって「ねばり」と呼ばれた。その表現を借りれば,最初の「重喜劇」とみなされる『果しなき欲望』(1958年)以降, 今村は売春・強姦・近親相姦という3つのテーマにねばっていた。作品ごとに重点の置き方は異なるが,1968年までの全ての娯楽映画(『にあんちゃん』を除き)において,いずれもその主題は3つのテーマのなかから少なくとも2つ以上は選び取られているといえる。 1964年制作の『赤い殺意』は藤原審爾の東京を舞台に可愛い印象の女性が強姦されるという小説を原作にテーマのみを借りた,今村昌平ならではの映画作品である。強姦を主題に近親相姦的な要素も加えて物語の舞台を監督の憧れた地方,東北へもっていった。主人公の貞子は,仙台の郊外において農地を所有する高橋家の若妻である。強盗に犯されてしまったあと強くなってゆき,彼女をまるで女中のように扱いしていた姑との上下関係を逆転させ家の権力者に上昇する。 本論文では社会学と作家の志向から離れて,いくつかの新しい観点を導入する上で作品そのものに絞って分析を行なう。変化する立場において彼女自身が如何に変貌し,どのような行動をとるかという二点をめぐって『赤い殺意』を考察する上で今村昌平が「重喜劇」と呼んだ60年代の作品群と関連付けて結論を述べる。

  6. 女の勝利が女自身しか笑えないコメディ : 今村昌平の「重喜劇」・『赤い殺意』をめぐって

    モルナール, レヴェンテ
    今村昌平は「テーマ監督」である。すなわち今村の作品群はその時期々々において特定のトピックや主題を軸に構成されていることを示す。主題におけるそういった反復は,監督自身によって「ねばり」と呼ばれた。その表現を借りれば,最初の「重喜劇」とみなされる『果しなき欲望』(1958年)以降, 今村は売春・強姦・近親相姦という3つのテーマにねばっていた。作品ごとに重点の置き方は異なるが,1968年までの全ての娯楽映画(『にあんちゃん』を除き)において,いずれもその主題は3つのテーマのなかから少なくとも2つ以上は選び取られているといえる。 1964年制作の『赤い殺意』は藤原審爾の東京を舞台に可愛い印象の女性が強姦されるという小説を原作にテーマのみを借りた,今村昌平ならではの映画作品である。強姦を主題に近親相姦的な要素も加えて物語の舞台を監督の憧れた地方,東北へもっていった。主人公の貞子は,仙台の郊外において農地を所有する高橋家の若妻である。強盗に犯されてしまったあと強くなってゆき,彼女をまるで女中のように扱いしていた姑との上下関係を逆転させ家の権力者に上昇する。 本論文では社会学と作家の志向から離れて,いくつかの新しい観点を導入する上で作品そのものに絞って分析を行なう。変化する立場において彼女自身が如何に変貌し,どのような行動をとるかという二点をめぐって『赤い殺意』を考察する上で今村昌平が「重喜劇」と呼んだ60年代の作品群と関連付けて結論を述べる。

  7. 虚無よりの創造 : 太宰治「トカトントン」論

    唐, 雪
    「トカトントン」は、一九四七年一月号の『群像』に発表され、同年の八月に筑摩書房による単行本『ヴィヨンの妻』に収録された往復書簡体形式を採った短篇小説である。この小説は、太宰の愛読者である保知勇二郎という青年からの手紙の中に出てくる金槌の音がヒントとなって書かれたのである。正体不明な音に取り憑かれた「私」の告白を中心的内容とするこの小説は、単に一復員青年の虚無的な心理模様が緻密に描かれているだけではない。敗戦直後に発表されたため、当時の社会の諸相、すなわち玉音放送、復員、新円への切り替え、民主主義の提唱、総選挙、共産党の合法化、労働者のデモ、文化国家の建設といった問題もふんだんに盛り込まれている。また、敗戦後における百鬼夜行の闇市で襤褸を纏う乞食の少年にイエスの崇高な面影を見出したという石川淳の短編「焼跡のイエス」(『新潮』一九四六・一〇)を髣髴させる自嘲、諧謔も加味されている。さらに、結末の「某作家」による返信に新約聖書の「マタイ福音書」からの引用があることからも分かるように、「トカトントン」もまた、「駆込み訴へ」(『中央公論』一九四〇・二)をはじめとする太宰の多くのテクストと同様、聖書と切っても切れない関係を持つ。 本稿は、太宰がもっとも得意とした創作手法の一つである書簡体形式、文体における脱線的叙述に注目する。そして、敗戦直後という特殊な社会状況を整理し、同時代に書かれた他作家の作品にも目配りし、あらためてこの小説の意義を考察したい。

  8. 虚無よりの創造 : 太宰治「トカトントン」論

    唐, 雪
    「トカトントン」は、一九四七年一月号の『群像』に発表され、同年の八月に筑摩書房による単行本『ヴィヨンの妻』に収録された往復書簡体形式を採った短篇小説である。この小説は、太宰の愛読者である保知勇二郎という青年からの手紙の中に出てくる金槌の音がヒントとなって書かれたのである。正体不明な音に取り憑かれた「私」の告白を中心的内容とするこの小説は、単に一復員青年の虚無的な心理模様が緻密に描かれているだけではない。敗戦直後に発表されたため、当時の社会の諸相、すなわち玉音放送、復員、新円への切り替え、民主主義の提唱、総選挙、共産党の合法化、労働者のデモ、文化国家の建設といった問題もふんだんに盛り込まれている。また、敗戦後における百鬼夜行の闇市で襤褸を纏う乞食の少年にイエスの崇高な面影を見出したという石川淳の短編「焼跡のイエス」(『新潮』一九四六・一〇)を髣髴させる自嘲、諧謔も加味されている。さらに、結末の「某作家」による返信に新約聖書の「マタイ福音書」からの引用があることからも分かるように、「トカトントン」もまた、「駆込み訴へ」(『中央公論』一九四〇・二)をはじめとする太宰の多くのテクストと同様、聖書と切っても切れない関係を持つ。 本稿は、太宰がもっとも得意とした創作手法の一つである書簡体形式、文体における脱線的叙述に注目する。そして、敗戦直後という特殊な社会状況を整理し、同時代に書かれた他作家の作品にも目配りし、あらためてこの小説の意義を考察したい。

  9. 小川未明と日本少国民文化協会 : 日中・「大東亜」戦争下の歩み

    増井, 真琴
    日本少国民文化協会(以下、少文協)は、日米開戦直後の昭和一六年一二月二三日(皇太子の誕生日)に発足した、児童文化分野の国策協力団体である。そして児童文学作家の小川未明は、この団体の設立・運営に深い関わりを持っていた。 しかるに、未明と少文協との接点をつまびらかにした先行研究は、現状存在しない。というのも、昭和期の未明の行状自体、これまであまり注目されてこなかったからである。なかんずく、満州事変以降、一五年戦争下のそれは、研究の空白地帯とさえ言ってよいだろう。 そこで本稿は、研究の更地に一石を投じるべく、次の三節からなるアプローチを採用し、両者の関係の究明を試みた。 まず、一節「「児童読物改善ニ関スル指示要綱」から日本少国民文化協会設立まで」では、少文協発足の起点である「児童読物改善ニ関スル指示要綱」(昭和一三年一〇月)から、「児童文化新体制懇談会」(昭和一五年九月)を経て、少文協設立(昭和一六年一二年)へ至るまでの未明の行状を、一次資料を探査して、徹底的に洗った。 次に、二節「日本少国民文化協会での発言・行動」では、少文協設立後、団体の機関誌類(「少国民文化」「少国民文学」「日本少国民文化協会報」『少国民文化論』)へ発表された、未明の評論・随想類をすべて分析するとともに、協会内部での彼の行動を追った。 最後に、三節「童話「頸輪」─アジアを統べる母」では、未明が「少国民文化」創刊号へ著した童話「頸輪」(昭和一七年六月)を分析した。童話作中の小犬と母犬には、欧米に屈従を強いられるアジアと、その解放者たる日本の姿─すなわち、「大東亜共栄圏」のイデオロギー─が存分に仮託されているというのが、筆者の見立てである。 本稿によって、従来黙殺されてきた、未明の国策協力者としての相貌が、幾分なりとも明らかになったものと結論付けたい。

  10. 小川未明と日本少国民文化協会 : 日中・「大東亜」戦争下の歩み

    増井, 真琴
    日本少国民文化協会(以下、少文協)は、日米開戦直後の昭和一六年一二月二三日(皇太子の誕生日)に発足した、児童文化分野の国策協力団体である。そして児童文学作家の小川未明は、この団体の設立・運営に深い関わりを持っていた。 しかるに、未明と少文協との接点をつまびらかにした先行研究は、現状存在しない。というのも、昭和期の未明の行状自体、これまであまり注目されてこなかったからである。なかんずく、満州事変以降、一五年戦争下のそれは、研究の空白地帯とさえ言ってよいだろう。 そこで本稿は、研究の更地に一石を投じるべく、次の三節からなるアプローチを採用し、両者の関係の究明を試みた。 まず、一節「「児童読物改善ニ関スル指示要綱」から日本少国民文化協会設立まで」では、少文協発足の起点である「児童読物改善ニ関スル指示要綱」(昭和一三年一〇月)から、「児童文化新体制懇談会」(昭和一五年九月)を経て、少文協設立(昭和一六年一二年)へ至るまでの未明の行状を、一次資料を探査して、徹底的に洗った。 次に、二節「日本少国民文化協会での発言・行動」では、少文協設立後、団体の機関誌類(「少国民文化」「少国民文学」「日本少国民文化協会報」『少国民文化論』)へ発表された、未明の評論・随想類をすべて分析するとともに、協会内部での彼の行動を追った。 最後に、三節「童話「頸輪」─アジアを統べる母」では、未明が「少国民文化」創刊号へ著した童話「頸輪」(昭和一七年六月)を分析した。童話作中の小犬と母犬には、欧米に屈従を強いられるアジアと、その解放者たる日本の姿─すなわち、「大東亜共栄圏」のイデオロギー─が存分に仮託されているというのが、筆者の見立てである。 本稿によって、従来黙殺されてきた、未明の国策協力者としての相貌が、幾分なりとも明らかになったものと結論付けたい。

  11. 『秋津温泉』論

    朱, 依拉
    1962年に発表された『秋津温泉』は,女優の岡田茉莉子が自身の映画出演百本記念作品としてみずから企画し,吉田喜重に監督を依頼した作品である。この映画は,後ほど公私ともに生涯のパートナーとなる二人による最初の共同作業として注目され,メロドラマの傑作としては高く評価されている。しかし一方では,監督による他の映画作品と比べて,本作には吉田喜重映画を決定的に特徴づける要素が少なく,全体としてこの前衛映像作家の作家性が欠けていると指摘する声も少なくない。その結果,『秋津温泉』は吉田喜重フィルモグラフィーの中でも他の作品とやや離れた場所に位置づけされるように見える。 本稿は,監督による他の作品との継承関係を念頭に置きつつ,これまで希薄とされる本作における監督の作家性を全面的に考察することによって,いわゆる「反映画」的姿勢を貫いてきたと思われる監督のフィルモグラフィーにおける位置付けを再検討する。その考察は,主にシナリオと映像を対象に行われる。具体的に言うと,まずは松竹時代の監督の問題意識が本作において如何に反映されているかを検証する。続いて,本作を現代映画社設立初期の作品群において監督が行なったいわば「反メロドラマ」的実験の予告と看做し,その中で先行して行われた吉田喜重と言う映像作家による最初の試みを考察する。そして最後に,後ほど完成されることとなる監督による「反映画」的作品で最も重要とされるモチーフの一つとして,「鏡」を取り上げて本作における鏡の表象について考察を行う。

  12. 『秋津温泉』論

    朱, 依拉
    1962年に発表された『秋津温泉』は,女優の岡田茉莉子が自身の映画出演百本記念作品としてみずから企画し,吉田喜重に監督を依頼した作品である。この映画は,後ほど公私ともに生涯のパートナーとなる二人による最初の共同作業として注目され,メロドラマの傑作としては高く評価されている。しかし一方では,監督による他の映画作品と比べて,本作には吉田喜重映画を決定的に特徴づける要素が少なく,全体としてこの前衛映像作家の作家性が欠けていると指摘する声も少なくない。その結果,『秋津温泉』は吉田喜重フィルモグラフィーの中でも他の作品とやや離れた場所に位置づけされるように見える。 本稿は,監督による他の作品との継承関係を念頭に置きつつ,これまで希薄とされる本作における監督の作家性を全面的に考察することによって,いわゆる「反映画」的姿勢を貫いてきたと思われる監督のフィルモグラフィーにおける位置付けを再検討する。その考察は,主にシナリオと映像を対象に行われる。具体的に言うと,まずは松竹時代の監督の問題意識が本作において如何に反映されているかを検証する。続いて,本作を現代映画社設立初期の作品群において監督が行なったいわば「反メロドラマ」的実験の予告と看做し,その中で先行して行われた吉田喜重と言う映像作家による最初の試みを考察する。そして最後に,後ほど完成されることとなる監督による「反映画」的作品で最も重要とされるモチーフの一つとして,「鏡」を取り上げて本作における鏡の表象について考察を行う。

  13. 林鵞峰『論語集注私考』について : 明代の著作の引用状況と『論語』解釋の特徴

    関, 雅泉
    國立公文書館に所藏されている林鵞峰の『論語集注私考』は、『論語』に關する解釋書である。鵞峰は林家の繼承者として、その學風は父の羅山から大きな影響を受けている。彼は朱子『論語集注』に基づいて解釋を加え、明代の著作を屡々引用し、強い關心を示している。本稿では、『論語集注私考』における明代の著作の引用状況及び鵞峰の解釋について考察し、さらに朱子『論語集注』と對比しながら、鵞峰の『論語』解釋の特徴を明らかにしたい。結論として、鵞峰は明朝から新しく渡來した書物を積極的に渉獵し、新古注を折衷する清原家の學問とは異なる見解を示している。また、『論語』解釋には朱子と違う點があるが、全體的にみれば、鵞峰の解釋の特徴は朱子の『論語』解釋を踏襲し、異學を排撃する朱子學一尊主義にあることは明らかである。

  14. 林鵞峰『論語集注私考』について : 明代の著作の引用状況と『論語』解釋の特徴

    関, 雅泉
    國立公文書館に所藏されている林鵞峰の『論語集注私考』は、『論語』に關する解釋書である。鵞峰は林家の繼承者として、その學風は父の羅山から大きな影響を受けている。彼は朱子『論語集注』に基づいて解釋を加え、明代の著作を屡々引用し、強い關心を示している。本稿では、『論語集注私考』における明代の著作の引用状況及び鵞峰の解釋について考察し、さらに朱子『論語集注』と對比しながら、鵞峰の『論語』解釋の特徴を明らかにしたい。結論として、鵞峰は明朝から新しく渡來した書物を積極的に渉獵し、新古注を折衷する清原家の學問とは異なる見解を示している。また、『論語』解釋には朱子と違う點があるが、全體的にみれば、鵞峰の解釋の特徴は朱子の『論語』解釋を踏襲し、異學を排撃する朱子學一尊主義にあることは明らかである。

  15. 同一指示と解釈される「N1のN2」と「N2のN1」 : 反転表現「N2のN1」の焦点化の要因

    中村, 真衣佳
    日本語の連体修飾句「NのN」は,従来「の」による多義性が指摘されているが,本稿では,「NのN」の多義が「の」の作用だけではなく,名詞の性質と語用論的要素の影響を受けているということを「NのN」の反転現象を用いて論証する。反転現象とは,「青のボールペン」と「ボールペンの青」,「みじん切りの玉ねぎ」と「玉ねぎのみじん切り」のように「の」の前後の名詞を入れ替えても指示対象が同一になる現象である。また,反転後の「N2のN1」形式である「ボールペンの青」「玉ねぎのみじん切り」のような表現は,反転表現と呼ばれている。 実際の言語運用場面において,反転前と指示対象が同一となる反転表現が優先的に使用されることがあるが,なぜ反転表現が使用されるのか,また,なぜ指示対象が同一になるのかに関しては,明らかになってはいない。先行研究において,文脈を補うことで反転可能である「N1のN2」を分析したものに小松原(2013)があるが,実際には,文脈を補うことなく反転可能であり,かつ,指示対象が同一となる事例は多くみられる。このような事例について,これまでの先行研究では現象の指摘にとどまるばかりであり,この現象を詳細に分析したものは管見の限り見られない。 そこで,本稿では,文脈を補わなくても反転可能であり,かつ,指示対象が同一と解釈される「N1のN2」を名詞の性質と修飾の種類から分析する。名詞の性質に関して,本稿では,N1の自立性の高さに注目するために,N1は,「材質名詞」,「色彩名詞」,「サイズ・方法名詞」を対象にし,N2は「モノ名詞」を対象にした。また,本稿で扱う修飾の種類は,「の」の作用と関係している「論理的修飾」と対比的文脈が想定される「語用論的修飾」とする。 以上の観点から分析した結果,本稿では,反転可能かつ指示対象が同一と解釈される条件は,名詞の性質にあること,そして,実際の言語運用場面で反転表現を使用する動機は,名詞の「同時指示性」にあることを主張した。そして,「同時指示性」が生じる要因は,属性でありながら自立性の高いN1が主要部位置に移動することであると指摘した。また,「の」に前接したN2が指示対象として解釈される要因は,対比的文脈想定時に広範囲の語彙的集合からN2を指定することで「焦点化」が生じる点にあることを示した。

  16. 同一指示と解釈される「N1のN2」と「N2のN1」 : 反転表現「N2のN1」の焦点化の要因

    中村, 真衣佳
    日本語の連体修飾句「NのN」は,従来「の」による多義性が指摘されているが,本稿では,「NのN」の多義が「の」の作用だけではなく,名詞の性質と語用論的要素の影響を受けているということを「NのN」の反転現象を用いて論証する。反転現象とは,「青のボールペン」と「ボールペンの青」,「みじん切りの玉ねぎ」と「玉ねぎのみじん切り」のように「の」の前後の名詞を入れ替えても指示対象が同一になる現象である。また,反転後の「N2のN1」形式である「ボールペンの青」「玉ねぎのみじん切り」のような表現は,反転表現と呼ばれている。 実際の言語運用場面において,反転前と指示対象が同一となる反転表現が優先的に使用されることがあるが,なぜ反転表現が使用されるのか,また,なぜ指示対象が同一になるのかに関しては,明らかになってはいない。先行研究において,文脈を補うことで反転可能である「N1のN2」を分析したものに小松原(2013)があるが,実際には,文脈を補うことなく反転可能であり,かつ,指示対象が同一となる事例は多くみられる。このような事例について,これまでの先行研究では現象の指摘にとどまるばかりであり,この現象を詳細に分析したものは管見の限り見られない。 そこで,本稿では,文脈を補わなくても反転可能であり,かつ,指示対象が同一と解釈される「N1のN2」を名詞の性質と修飾の種類から分析する。名詞の性質に関して,本稿では,N1の自立性の高さに注目するために,N1は,「材質名詞」,「色彩名詞」,「サイズ・方法名詞」を対象にし,N2は「モノ名詞」を対象にした。また,本稿で扱う修飾の種類は,「の」の作用と関係している「論理的修飾」と対比的文脈が想定される「語用論的修飾」とする。 以上の観点から分析した結果,本稿では,反転可能かつ指示対象が同一と解釈される条件は,名詞の性質にあること,そして,実際の言語運用場面で反転表現を使用する動機は,名詞の「同時指示性」にあることを主張した。そして,「同時指示性」が生じる要因は,属性でありながら自立性の高いN1が主要部位置に移動することであると指摘した。また,「の」に前接したN2が指示対象として解釈される要因は,対比的文脈想定時に広範囲の語彙的集合からN2を指定することで「焦点化」が生じる点にあることを示した。

  17. 数量詞に後接する「も」の用法に関する分析

    稲吉, 真子
    日本語では,数量詞の接続構造において,数量詞が遊離した構造が無標とされる。加えて,数量詞に後接する副助詞の意味的関与が大きいという点も特徴的な点の一つとして挙げられる。本稿では,数量詞に「も」をはじめとする副助詞が共起している例について,実際の運用に着目しながら分析を行う。数量詞の運用には推意が伴い,それには尺度に関与するScalar Q-Implicature(尺度のQ 推意)が関与する。しかし,英語と日本語では構造や語彙が異なるため,先行研究の定義をそのまま応用することはできない。特に,日本語では副助詞の意味に基づき推意が発生するため,副助詞ごとの特徴を分析する必要があると言える。これについては,さらに「話し手の想定」と「話し手の評価」という観点を加えることで,より詳細な分析を試みる。まず「話し手の想定」とは,当該の値に対する事実的な叙述,判断であり,想定は個人の知識や経験に起因する。一方で「話し手の評価」とは,想定に付加される話し手の主観的な多寡の価値付けであり,後者は副助詞の中でも,「も」や「しか(ない)」などの一部のものにしか生じない。これらには,当該事項に対する話し手の評価を伝達することで,それに伴う副次的な意味を推意として伝達する場合がある。一方で「は」などの副助詞は,当該の値に対し,話し手の想定による事実を提示するにとどまり,話し手の評価を伝達する機能はない。また,各副助詞と共起した場合,どのような意味が生じる かについては,当該の値の作用域という観点から,「も」,「しか(ない)」,「は」を比較,分析する。これに先述の「話し手の評価」という観点も加え,「作用する範囲」と「話し手の想定と実際の値」という観点から全体の特徴として まとめる。

  18. 数量詞に後接する「も」の用法に関する分析

    稲吉, 真子
    日本語では,数量詞の接続構造において,数量詞が遊離した構造が無標とされる。加えて,数量詞に後接する副助詞の意味的関与が大きいという点も特徴的な点の一つとして挙げられる。本稿では,数量詞に「も」をはじめとする副助詞が共起している例について,実際の運用に着目しながら分析を行う。数量詞の運用には推意が伴い,それには尺度に関与するScalar Q-Implicature(尺度のQ 推意)が関与する。しかし,英語と日本語では構造や語彙が異なるため,先行研究の定義をそのまま応用することはできない。特に,日本語では副助詞の意味に基づき推意が発生するため,副助詞ごとの特徴を分析する必要があると言える。これについては,さらに「話し手の想定」と「話し手の評価」という観点を加えることで,より詳細な分析を試みる。まず「話し手の想定」とは,当該の値に対する事実的な叙述,判断であり,想定は個人の知識や経験に起因する。一方で「話し手の評価」とは,想定に付加される話し手の主観的な多寡の価値付けであり,後者は副助詞の中でも,「も」や「しか(ない)」などの一部のものにしか生じない。これらには,当該事項に対する話し手の評価を伝達することで,それに伴う副次的な意味を推意として伝達する場合がある。一方で「は」などの副助詞は,当該の値に対し,話し手の想定による事実を提示するにとどまり,話し手の評価を伝達する機能はない。また,各副助詞と共起した場合,どのような意味が生じる かについては,当該の値の作用域という観点から,「も」,「しか(ない)」,「は」を比較,分析する。これに先述の「話し手の評価」という観点も加え,「作用する範囲」と「話し手の想定と実際の値」という観点から全体の特徴として まとめる。

  19. 「し」の機能 : 「よ」「から」との比較を含めて

    大山, 隆子
    接続助詞「し」の規範的用法は「並列」を表し「この町は自然が多いし,きれいだし,便利だ。」のような使用である。しかし,最近,若者を中心に「きれいだし。」のように「従属節し。」のみで終わる使用が観察される。このような従属節のみで終わる現象は白川(2009)では,「言いさし」の現象と呼ん でいる。これらの「し」は,先行研究で述べられている「し」の用法の中の「婉曲的用法」とは異なり,話し手の強い伝達態度を表す機能を持つものと考えられる。本稿では,先ず「し」の統語的特徴について述べ,次に「し」の語用論的機能について考察する。また「し」と出現位置が似ている終助詞の「よ」と接続助詞の「から」が談話の中でどのような語用論的機能を持つのか比較分析する。 考察の結果としては,「し」は「理由」となるものが複数存在する時は「~し~し~。」と「並列」を表し,また「~し,(~,~)」のように「非並列」の場合は,複数の理由の存在を暗示できる。また「理由」を(実は)一つしか持たない場合は,「~し。」の形で打ち止め,あたかも理由が複数あるかの ように示す談話効果を持つと考えられる。 また「し」,「よ」,「から」は談話標識として「発話する情報についての話者自身の伝達上の態度を示す」機能を持つと考えられる。「し」は「発話内容については判断済みの態度であり,「聞き手への受容要求」については,考慮しないが,効果を示せる。聞き手あるいは,周りと同一認識状況では使用しにくい。反論に使用できる。」などの特徴があると考えられる。 また比較対象とした終助詞「よ」の機能を分析すると,その違いは大きいと言える。「よ」はもともと終助詞であり,「聞き手との関係において」用いられるが,「し」は「変更の可能性がない結論を聞き手に表明する態度である」と言える。「よ」はまた,談話管理は話し手が行い,相手と話す態度を残している。「聞き手への受容要求」があり,聞き手あるいは,周りとの同一認識状況でも使用できる。 次に接続助詞「から」との比較であるが,二つは同じ接続助詞の種類であるが,「から」は「論理関係標示接続」であり,「し」は「事実関係認識標示接続」である。この違いから,「から」は前件で確実な根拠・理由となり得るものを挙げ,後件での行動を促す機能を持つ。一方「し」は論理関係ではなく,話し手が認識した事実をつなぐものである。「言いさし」になっても,これらは二つの違いとなって表れているものと考える。

  20. 「し」の機能 : 「よ」「から」との比較を含めて

    大山, 隆子
    接続助詞「し」の規範的用法は「並列」を表し「この町は自然が多いし,きれいだし,便利だ。」のような使用である。しかし,最近,若者を中心に「きれいだし。」のように「従属節し。」のみで終わる使用が観察される。このような従属節のみで終わる現象は白川(2009)では,「言いさし」の現象と呼ん でいる。これらの「し」は,先行研究で述べられている「し」の用法の中の「婉曲的用法」とは異なり,話し手の強い伝達態度を表す機能を持つものと考えられる。本稿では,先ず「し」の統語的特徴について述べ,次に「し」の語用論的機能について考察する。また「し」と出現位置が似ている終助詞の「よ」と接続助詞の「から」が談話の中でどのような語用論的機能を持つのか比較分析する。 考察の結果としては,「し」は「理由」となるものが複数存在する時は「~し~し~。」と「並列」を表し,また「~し,(~,~)」のように「非並列」の場合は,複数の理由の存在を暗示できる。また「理由」を(実は)一つしか持たない場合は,「~し。」の形で打ち止め,あたかも理由が複数あるかの ように示す談話効果を持つと考えられる。 また「し」,「よ」,「から」は談話標識として「発話する情報についての話者自身の伝達上の態度を示す」機能を持つと考えられる。「し」は「発話内容については判断済みの態度であり,「聞き手への受容要求」については,考慮しないが,効果を示せる。聞き手あるいは,周りと同一認識状況では使用しにくい。反論に使用できる。」などの特徴があると考えられる。 また比較対象とした終助詞「よ」の機能を分析すると,その違いは大きいと言える。「よ」はもともと終助詞であり,「聞き手との関係において」用いられるが,「し」は「変更の可能性がない結論を聞き手に表明する態度である」と言える。「よ」はまた,談話管理は話し手が行い,相手と話す態度を残している。「聞き手への受容要求」があり,聞き手あるいは,周りとの同一認識状況でも使用できる。 次に接続助詞「から」との比較であるが,二つは同じ接続助詞の種類であるが,「から」は「論理関係標示接続」であり,「し」は「事実関係認識標示接続」である。この違いから,「から」は前件で確実な根拠・理由となり得るものを挙げ,後件での行動を促す機能を持つ。一方「し」は論理関係ではなく,話し手が認識した事実をつなぐものである。「言いさし」になっても,これらは二つの違いとなって表れているものと考える。

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